「死にたい」と感じるのってなぜでしょう
ご無沙汰しております。生きています。
状況は変わっておらず、今も日がな毎日何も生み出しておりません。
なので電子の海の中に少しでも墨汁を垂らし、自分が生きていた足跡を残したいと思うのです。
本稿は私が「死にたい」とよく思うことについて、自分なりに分析したものです。
全く医学的・心理学的バックボーンがある文章ではありませんが、
自分なりの整理として置いておきます。
ほんの少しでも、世間様の何かの役にたてばいいなあ、と思います。
「死にたい」とき
突然ですが私は「死にたい」とよく思っていました。
仕事をしていた頃には特によく思いました。
そして、死にたいと思ったときにはなぜかGoogle検索で「死にたい」と打ち込み、
「こころの健康相談ダイヤル」を何度となくサジェストされました。
(親の顔より見た検索画面)
仕事のミスを指摘されては「死にたい」
納期の遅れに気づいては「死にたい」
探している資料が10分見つからなくては「死にたい」
好きな女の子を誘って断られては「死にたい」
なぜでしょう。死にたすぎではありませんか?
大した事案でもありません。こんなことで死んでいたら大変です。
自分でも本当に死を選びたいと思っているわけではないのですが、頭の中に「死にたい」という言葉が出てくるのです。これは困ります。
「死にたい」の本当の意味
しばらく仕事から離れぶらぶらし、ゆっくり時間を使っていると、仕事上対面していたような辛いことにぶつかることが減り、自動的に「死にたい」と思うことは減りました。ただ、それでもたまにふっと「死にたい」という言葉が頭をよぎることがあります。
ふと気づいたのですが、私は「死にたい」という言葉をあまりにも軽く思考停止ワードとして使っていたのです。
本当はそれぞれ意味が違うのです。
仕事のミスを指摘されたときには「恥ずかしい」
納期の遅れに気づいたときには「申し訳ない」
書類が見つからないときには「焦る」
女の子に断られたときには「悲しい」
と別個の感情があり、それぞれ対処法が違うはずなのですが、
感情をうまく処理することができなかった当時の僕はそれら全てを包含する手段として、
「死んでしまえば何もかも関係なくなるから、死にたいと思えばいい」
という対処法に行き着いたのです。逃避です。
どうするべきだったのか
本来は、
マイナスの感情→それに対する対処案→対処→マイナスの感情の抑制
とすべきなのでしょうが、私の場合には
マイナスの感情→(対処案として)死にたい→対処されない→抑制されることなく続くマイナスの感情
という悪循環になっていました。
仕事上のミスは早期に解決し信頼を取り戻すことでプライドのようなものを得られるはずですし、
自分で気づいた納期遅れの申し訳なさは謝罪をすぐにして相手方と対処を検討する中で消えていくはずです。
書類が見つからない焦りは、その瞬間は仕方がありませんが今後起きないように整理しておくことで発生の可能性を減らせます。
女の子に振られることはまあ仕方ありませんが、男友達でも呼んで飲んでいれば楽しいでしょう。(これは防衛機制でいうところの代償にあたるのでしょうが)
これから
今も寝る前にふと「死にたい」と感じるときがあります。
ただ、今はその感情がなんなのか、ゆっくり考えるようにしています。
申し訳ないのか、恥ずかしいのか、気持ちが悪いのか、怒っているのか。
「死にたい」は魔法のワードでした。
今後はできる限り使わないようにしたいですし、もし思い浮かんだときには、ゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐き、その気持ちが何なのか、丁寧に観察してあげたいと思います。
本日の結論
「死にたい」はもう使わない。違う言葉にしてあげる。